私がエスペラントをはじめた理由
世界には6,000もの言語があります。どの言語も同じ価値を持っています。どれが素晴らしく、どれが素晴らしくないか、などはありません。しかしながら 現実世界をみれば英語を筆頭に大言語と呼ばれるものが少数言語や希少言語を圧倒し、かつ圧迫しています。多くの言語が消滅してしまうと推測されています。
文化の多様性が声高に叫ばれていますが、言語に関しては全く逆の流れになっています。Lingva imperiismo といってもいいのに、ほとんどの人がこの流れに無関心です。私は常々”言葉は文化である”と思っていましたから、当然の帰結として国際共通語は中立で簡単に覚えられるものでなければなりません。世界を見渡してみて、それにあてはまる言葉はエスペラントしかありません。
エスペラントの創始者ザメンホフ
エスペラントを創ったラザロ・ルドヴィーコ・ザメンホフは、1859年12月15日にポーランドの東にあるビャリストクで、ユダヤ人夫妻の元に生まれま した。当時はロシア領でした。ザメンホフの父はドイツ語の教師、母は熱心なユダヤ教徒でした。彼女はいつも全ての子供は神の子であると言っていましたが、
ビャリストクではポーランド人、ロシア人、ドイツ人、ユダヤ人らが、互いに仲が悪く、母親の言とは違う現実にルドヴィーコは心を痛めていました。各人種の 言葉が違うことが争いの原因だと思い、かれは共通語をつくる決心を固めました。
彼は易しく、そして規則的で覚えやすい言葉を創ることを目ざしました。自然語から言葉を選び、中立で、どの国にも属さない言葉を熱心に創作し続けました。創り始めてから4年経過した19歳の時に、それは完成しました。
だが、直ぐには発表せず『旧約聖書』『アンデルセン童話』シェイクスピアの戯曲などをエスペラント訳し、十分に言語として機能することを実証したあとに、それは発表されました。
ザメンホフが27歳、1887年のことでした。『国際語』という本で、著者名がザメンホフではなくエスペラント博士というペンネームでした。
esperoが ”希望”、接尾語尾のantoが ”人”ですから ”希望する人”という意味になります。その言葉が静かに広まり第一回世界大会が1905年に フランスで開催され20か国700人の人が集まりました。それまで、書籍を読んだり、手紙を書いたりしたことはありますが、話をしたことのある人は、ほとんどいなかったのですが、会話 を交わしてみると、互いの言わんとすることが理解できたのです。
新渡戸稲造が国際連盟事務局次長だったとき、「国際補助語エスペラントを(各国)の公立学校に編入する」案を”国連”に提案しました。彼は民俗学の権威となった柳田國男にエスペラントを推奨しました。柳田も熱心なエスペランチストになり、その普及に尽力しました。
芸術関係では、二葉亭四迷がロシアでエスペラントを学び、ついにはエスペラントの入門書「世界語」を創り、出版しました。詩人の秋田雨雀は、日本にエスペラントを広めたひとり、ロシアの盲目の詩人エロシェンコと交友があり、彼にもエスペラントを教わりました。童話作家で詩人の宮沢賢治は、東京でフィンラン
ドの言語学者でエスペランチストであるラムステットの講演を聞き、エスペラントの勉強を始めました。彼は、いつかエスペラントで童話や詩を書くのが夢でし た。作家の井上ひさしは、宮沢賢治の戯曲を作ったとき、エスペラントの授業の場面を入れています。SF作家の小松左京は「未来の言語について」という講演 で「エスペラントは世界の要求に答えるもの」と発言しています。
思想界では「民本主義」を説いた吉野作造、アナキスト・大杉栄、女性解放運動の平塚らいてう、被差別部落解放運動家で「水平社宣言」を起草した西光万吉などがいます。2.26事件で死刑に処せられた北一輝も「英語を廃してエスペラントを採用する」としています。国立民族学博物館の初代館長の梅棹忠夫は、伊藤大輔監督、市川雷蔵主演の映画「ジャン・有馬の襲撃」で、南蛮人が話す言葉がエスペラントだったので、監修をしています。
芸人では、二代目桂枝雀も「かつてエスペラントを勉強した」と発言しています。
また、ノーベル賞受賞者で科学者の湯川秀樹博士の夫人、スエは、エスペラント運動の熱心な支持者で、秀樹博士も『現代科学と人間』などで「エスペラントを推奨する」と述べています。
この他、実に多勢のエスペランチストがいて、エスペラント運動を支持し、その運動にかかわりエスペラントを未来につないでいます。(敬称略)
八木重吉は、昭和2年(1927年)に29歳で夭折した詩人である。
生前に出版した詩集は『秋の瞳』一冊であるが、夫人のとみが詩の原稿を大事に手元におき、後に全てを出版した。
ひらがなが多く、シンプルな詩が多い。詩を読んでみると「これが詩なの?」とつい思ってしまう。私は約40年前に伊藤信吉編の『日本名詩選』の中で読んだ「涙」が忘れられなかった。
「つまらないから あかるい陽のなかにたってなみだを ながしていた」。この詩が胸の奥につきささり、心に棲みついた。ピカソの描いた抽象画が子どもでもかけるよ、と言われるように重吉の詩も、そう言われるかもしれない。
しかし、彼の詩もピカソの絵と同じく削りに削り、無駄を省きに省いた後の”心”がむき出しにしかも、軽やかに表現されたものではないか、と思っている。またある意味、俳句のような部分を持ち合わせている。
短い詩でも。漢字とひらがなの使い方、一文字のあけ方、行変えの仕方、一行のあけ方など実に細密に構成されている。擬音や擬人法、そして対位法的な表現に満ちている。何回読んでもあきないし、心にスッと入って来る。日本の詩人のなかでも特異な詩人だと思う。
(敬称略)